続き


「ちょっとキミ。さっきの話、あれ、違うよね。キミの言っていた意味だと、『自同律の不快』ではなく、『自同律を理解及び実行出来ない人に対してキミが感じる不快』だよね。『の』なんて入ってないよね。さっきの彼は、口車に乗せられて納得してしまったようだけど、とんだ大嘘つきだねキミは。捏造師もいいところだよ。」

「ギクッ!ギクギクギクッ!」

「余裕なんだね、擬態語を口で言うなんて。分かっててやっていたとでも言いたげじゃないか。太宰治の『人間失格』の主人公、葉蔵の幼少期の「ワザ、」と言われて自分の道化が演技であることを見抜かれて恐怖したエピソードを恐怖させた側の竹一の視点に居ながら葉蔵の役をすることで、風刺しているのかい。」

「んんっ?いや、いまやこんな軽いノリ、普通やねん。何も考えてへんでわしは。」

「くッくっくっ。そうなんだ。そりゃ、世が乱れるわけだね。」

「まぁ、否定できないが。」

「『自同律の不快』とは、『自分が自分であることの不快』という概念で、埴谷雄高が彼の小説『死靈』において示したものだよね。冒涜行為だと思わないのかい?」

「んん〜。かもしれんな。………でも、鬱屈してまうのがしんどいねん。『自分が自分であることの不快』を感じへんねや、わては。なんでかってゅーと自分という概念は錯覚やからな。」

「なるほどね。仏教徒だったねキミは。無我ってわけだ。」

「無我=空ってことでね、実体がないってことで、『無』とは違うんやよね。これは、この等式として記憶してしまえば、自同律を思考原理として守る為の、一つのモデルケースになる。『無我=空』ってことは、常に分かっておるからなわてらは。数値については、自同律を皆扱える。ところが、数値やxyなどの代数など、数学以外の分野では、正味かなり難しいよ、自同律を守るのは。『私=私』としてみよか。いろんな私がでてくるよね。昨日、ラーメンを食べた私。一昨日、パソコンに噛まれた私。明日、泥濘に足を取られ沈みきらずに居る私。そんな色々な私から、どの私が、その思考の最中に、居続けるのであろうか。掃除機に言って、わからないし、いや、掃除機に言っても掃除機にはわからないし、いや、掃除機に言って、私にはわからないし、相手にとっても、相手にとっての私があるし、そんなモナカ、いや、そんな最中に、思考、いや、でも思考とは自分独りでするものだった、だから相手は要らないし、掃除機も、いや、掃除機は要るか、要る、かもしれない、それで、……それで、何だっけ?」

「なるほどね。『自同律の不快』という壁を前に、キミは引き返す道を選ぶわけだ。」

「そうなるかな。壁なんて、どこにでもあるし、家の中にもある。家の中の壁を越えようとすれば、天井に頭をぶつけ、頭痛の種となる。越えられない壁とは、家の壁だったのだ。」

「わかった。キミには驚かされるよ。ツッコミ不在のまま、ボケ続けるんだからね。それはピン芸人なら当たり前の事だが、キミは誰に対して笑かそうとしているんだい?」

「さぁ?頭空っぽの方が夢詰め込めるもんな。」

「ドラゴンボールか。悟空、ね。空を悟る。ふっ。孫悟空だったのかキミは。似ても似つかぬ、不浄の極みみたいな容姿をしているようだが。」

「せやねん。それでこまっとりまんねん。」

「何を困る必要がある。かえって好都合じゃないか?」

「モテたいんですやんか。」

「悟っても、モテたいものかい?」

「まぁそういうフリしとかなね。」

「複雑だねぇ。」

「アンビバレント奴呼ばれ彦ですねん。」

「じゃあモテたいんじゃないか。」

「そう見えますかいな?」

「アンビバレントは、一つの対象に相反する感情を持つこと、だよ。それは、モテたい、に反しない。モテたあとの話じゃないか?」

「確かにそうかもしれん。」

「それ出てくるかぁ。漫才大好き人間だなキミは。」

「確かにそうかもしれん。」

「キミのは、どっちつかず、まだ決めてない状態じゃないか?」

「なんか、量子力学の話みたいになってきたな。観測される前の、電子じゃないか。」

「いや……、あの曲を思い出した。『心晴れて夜も明けて』か。『十兵衛ちゃん2-シベリア柳生の逆襲』のエンディングテーマか。いまユーチューブ聴いてきたが、キミが言っているようなことほとんど言ってあるじゃないか。こういう時間の中で育ってきたんだなキミは。」

「現実社会と、どっちが健全かね?」

「そうだな。穢土だもんな、この国もまた。心の穢れた人間の操る自動車という凶器による死者数千人。心の穢れた人間の操る場、そこからの転落に起因する自死二万余人。地獄とはまさに現世なり。とも見えるね。」

「バジリスクの典膳の台詞か。そこに気づかないからタチが悪い。直ぐ側にある戦争状態、残念ながら多くの者には見えないようだな。長老も仰っている、「実に頭が悪い」と。」

「ホントにそれを変えられると思ってるのかキミは?」

「ん?それだったらもう終わってるから何も問題ないんですねん。」

「………たまげたもんだな。どんなセリフなんだよそれは。夏休みの宿題じゃないんだよ。」

「んー。」

「ところでアンビバレントについてだが、一つの対象について相反する感情をもつこと、愛憎など、とあるが、キミがアンビバレント奴だと仮定すると、対象とはなんだい?」

「ムウでしょ。般若心経のね、無有恐怖(ムウクフ)。」

「まあ、普通は恐怖で、終わりだよね。思考消去、忘却の彼方へ。」

「一般的には健全だよね。」

「愛憎の憎は明確に仏教的ではないからね。瞋恚だもんな。」

「そう。で、アンビバレント、と。恐怖と愛とね。」

「わかった。相反するとは言えないな、愛と憎しみは。そへで、失礼かみまみ、いや、再び失礼、えーっと、それでやね、いや、再三再四失礼、それでですね、肉を喰らうと。」

「せやがな。輪廻転生の畜肉ですがな。大変なんでございますよ?牛さんや豚さんや鶏さんを食用に供する為の儀式を内在させ食用に供する手順の過程をおこのうのは。高倉健さんの任侠映画の中での食事作法、これを見て学ばなくてはならないのですよ正味の話が。」

「ですよね。人間として生を享けた以上、人間としての務めであるはず、人間らしく、人間だからこそ可能なことつまり、この世の輪廻転生の中に偶々いま在ることへ、深い畏敬の念を抱くこと、これを行わなくては。」

「供養が足りないのです。十事正見、その2つ目と3つ目、『二、大規模な供養には結果がある。』及び『三、小規模な供養には結果がある。』、この正見を知らなくてはならないのです。」

「更には、4つ目、『善悪の行為には結果がある。』、これも知るに良い機会になるでしょうな。」

「占いなどと言った下らない遊びにかまけている場合ではないのです。両の掌を合わせる、そして深い畏敬の念と感謝の念を念じる。その行為だけでも、小規模な供養と言えるでしょう。そのようなことから始めてゆく必要があるのです。」

「間違いなく、そうでしょうな。途中から口調が丁寧語になっていますがそんなことはどうでも良いことです。河原の石が河原の石であるように、草原の草が草であるように、海や川の魚が魚であるように、それが事実であると。」

「えぇ。」

「いえのあるじが頼みの綱、と。いうことになりますね。家という事象は、一つの宇宙とも言えます。個々にそれぞれの家訓やしきたりや決まり事があり、それに基づき法則が運用されその結果が現在の現実となっている。故に救世の主(ヌシ)は一家の主(あるじ)だと言えます。全く矛盾がありません。しかし、どうすべきでしょうか、この最近の事情を鑑みて。」

「だから、私が、捌いて、差し上げるのです。」

「な、なるほど。あなたは、海鮮料理の料理人だったのですか。」

「違います。」

「では、何なんですか?」

「私は、魚は、綺麗に食べる、それだけです。」

「どういうことです?」

「事象の相似形に型を型として型とし、さらには型を型とし型とする、それが対消滅の片と化し、その過程自体を寛がせ喜楽とし鷹揚へ変化(ヘンゲ)していくのです。蓮華です。」

「そんなやり方があるとは………しかし俄には信じられないな。」

「それはそうでしょう。貴方方は本当の天才の顔がどんな顔であるか、見たことがないでしょう。写真ができたのもこの百年余りほど前のこと。それぐらいの時間しか、比較対象をお持ちでないのですから。」

「大法螺吹きにしか見えないな。」

「大法螺吹きです。」

「やはりアンビバレントなんだな。」

「違います。」

「それでわかった。お釈迦様は、誇り高き釈迦族の王子であり、釈迦族は絶対に嘘をつかないことをその存在意義として存在したんだった。それであんたが必要だったんだな。一見、嘘つき島の住人に似てはいるが、よく見ると全く違う。合点がいったよ。」

「では、さようなら。」

「さようなら。また機会があることを願っております。」

はっ。なるほどね〜。
そうだったのか知らなかったなぁ〜。