経済の基本原理は、物々交換である。
漁師が魚を漁獲し、農家が米を育て収穫し、道具屋が道具を製造し、互いに交換する。互いに納得した、妥当な割合で。
価値の算出が発生した。
そして、魚など生鮮食品は腐るのが早いから交換に不便である。時間を飛ばすほうが便利だ。こうして、貨幣が発生した。
しかしまた、貨幣を介して交換可能とはいえ、そのために約束の時刻に待ち合わせをするなどして交換するものが一つだと、効率が悪い。そこで様々な物品を一処に揃え商う、商人が誕生した。ここでは、時間と手間を短縮した対価として手数料が上乗せされ、商人は貨幣を得る。
商人の事業拡大に伴い、あらゆる物や事が、価値の相場に乗り、貨幣を媒介して交換可能となった。
金貸しは、借り手の未来の金を売っている。いま現在には手元にない貨幣を得るという価値の対価に、借り手は金利を払う。
こうして、時間が貨幣に組み入れられることによって貨幣自体の売買が可能となり、マネーゲームともなった。
そのようにして、元々の原理である、
「人と人との間で行われる、信頼と納得に基づく相互に利益となる取引」
の範囲を逸脱し、
「金さえ持っていれば、有利で優れた人間である。」
という歪んだ認識が世に蔓延することにもなった。有利であるのは事実で、いろんなものが贖える。
たとえ他方で、騙し、収奪し、搾取し、貪っても、こちら側で利益数値を叩き出す能力があるならば、素晴らしいこととして認められる、そんな大局的に観れば非道な状態を肯定することになってしまったのである。
ここにも、主観的なものの見方に執着する不善により、貪瞋痴の痴に陥った人間の姿がある。
本当は厳密に算定など出来ないある物事の貨幣価値、その取引における高低差により多く流れ込んだ者、というだけに過ぎない者が幅を利かせる。そして少量しか持たざる者を見下し、基本を忘れて、人と人との平等という、全人類に共通する常識的価値観にすら抗う、獣人が世を闊歩する、まさに百鬼夜行の世が今である。
ま、もちろん、能力差によって生産量や質は差がつくわけであって、それを理由としても当然各人の手元に残る貨幣額に差はつく。
でも、それで、生存権の平等まで、破壊して、それで良いかな?
良くないよね。私はそう思うけど。
力があるならば、己が必要とする額と多少の余裕を残して、それを越えた余りの量については、健康で文化的な最低限度の生活を送るのにすら困っている人々のため、まだ自力で世を渡る為の躾やディシプリンが身に付いていない子供達のため、そんな世のため、に使うのが、巡り巡って己のためにもなる。十事正見の一つにも、「布施には結果がある。」とされている。
わかるでしょう?人を見下して、粗雑に扱い、心を踏みにじって、その者から、どんな目で、見られるのか。非道が世間の人々からどう見られるのか。
少し立ち止まって、される側に自分を置いて想像してみる余裕さえ心にあれば、簡単なことです。
道理に悖ること、倫理的に許されないこと、人の道に外れたこと、そのようなことは、やめたほうがいいでしょう。
お天道様が見ている、というやつですね。嘘を付くと、それを隠し通すのは、実に難しい事です。隠す為に、常に現れうる他の人によるしかもその内容が毎度異なる通常参照に合わせた改竄図を展開するためのシールドを、張っていなければならないからです。その試行が齟齬なく成功する保証もないのに。ものすごく精神力を消耗してしまいますね。
経済の基本原理を知って、人々が、人々のために役に立とうと誠実かつ真摯に取り組むならば、人権を侵害するような異常な報酬の差は、出来上がってしまってある機能システムたる経済システムの欠陥でしかありません。
おわかりいただければ幸いに存じます。