世界は複雑で、私は無力で私にはどうしようもないと思い込んでいるあなたへ


人間は、実は常に正解のある二択を選択し続けている。

絶対に誤りである選択をし続ける人々

ここに二択がある。
Z.目の前に有る人体を殴る
Y.何もしない

この問題には、絶対に正しい答えがある。おわかりだろうか?

答えはYである。

厳密さを求めるあなたには、絶対ではなく99.9%以上の確率で正解である答え、と言っておこうか。

人体が隣にある全ての瞬間についてこの二択が存在し、私たちは選択をし続けている。

99.9%以上であると言う意味がおわかりだろう。

世の中にいるエンタメが大好きな人々は、興行師たちの手練手管・百戦錬磨の話術・整った華やかな装いにより目眩まされ、この外の、0.1%以下の事象について拡大鏡で見させられ共感に誘い込まれ頷かされ納得させられ、頭の中をいっぱいにさせられていく。

おいお前。私を共振させられると思うなよ?
そう言って私は、アイスランドでアイスクリンにペラい木製スプーンを突き刺そうとした手の感覚をなくしていた。

絶対に間違いである選択をし続けた日々の末路であった。

ところで何でZとYなの?ふざけているの?

別にアルファベットを逆から使ってもええやろ。Aやろ。ただの記号や。別にここの所在地に名称としてあるbdやqpみたいに対称にしてもいいしでも対称な事象とは見えないからeとiにして自然対数の底と虚数単位になぞらえてオイラーの公式を連想させることによりどっちがおいらにとって自然で嘘がないかみたいな暗示にしてもよいが。

いきなり飛ばすね?あなたあたおかって言われない?

さぁ?日常にはこんなこと言わないから言われんやろたぶん。

ちゃんとTPOは弁えているんだね。ZとYだから、性染色体と連関させているつもりかと思ったよ。そうではないんだ?

それはXとYやな。そちらからどう見えるかはわからんがこちらの理由としては先ほども述べた通り、ただの付箋とその色、常用語で言えばラベルというだけだ。

ふ~ん、わかった。
しかし実際の所、何もしないでいるわけにもいかないでしょう。
どうすりゃいいの?

考えろ。まずは殴ることなど思いもしない優しい人になりゃ良いじゃないか。アウトサイドの何に憧れているんだ?
ワタシは特別、感だろ?
あんたらとは違うんだ私は。
つってな。
私以外私じゃないの
ってだけの誰にも共通の感覚なんだよそれは。それの勘違いさ。気づけ。この、オモシロクナールって薬を顔に白く塗って、な。

それでなんで気づくのか全くわかんないけど。

はいどうぞ。

あ、どうも。バッキャローこのぉ〜!顔白くなるヤツじゃなくて、ラムネ菓子やないか〜い!

あぁ間違えたわ。塗るタイプじゃなくて飲むタイプだったわ。

あら、そうだったの。噛み噛み。
いやラムネ菓子やないか〜い!
てか瓶に書いてあるし!

知ってたのに、乗ってくれるねキミ〜。よくやるわホンマに。

でも、そうは言っても、危ない人たちと関わらなきゃならない場合も有るでしょ?それに私はアウトサイドは嫌だしそんな人のほうが多いと思うけど。

然り。因縁(原因と条件)によってこの世は動いていく。
因縁によっては、Yが正解である確率がそれより下であると思えるような選択肢Xが見えることもあるだろう。
何事も修行である。
破壊的な現象の原因となる事象が、貪瞋痴の特に瞋である事が多いが、これらは自我の錯覚による。自己を観察し、瞋恚の発生を発見できるようになってくると、瞋恚は消えていく。客観視、メタ認知によって、何が起きているのか知ることにより、自我が錯覚であることに気づくのである。
そうなれば、自分の言動が変わり、条件に入る、相手のあり方も変わってくる。大きく言えば、自分が変われば世界が変わっていくのである。

でもそれは、元々が善良な性格の人たちが貪瞋痴に囚われている場合のことでしょう?そのような心のメカニズムを理解した上で、事を構えるでしょう、悪党たちは。

その通り。それが、国家権力による機能の出番となるところだ。自我の錯覚に気づけば改善するような人間の問題には、民事不介入の原則を持ち出さざるを得ない。言い方一つ、微笑み一つで仲良くなり、そもそも問題がなくなるという程度の事なら、基本的には立ち入り不要だとすべきだろう。
世間の平和を維持する為には、そもそもYを正解としない、者たちのことが問題となる。「この世には、正解も無く意味も無い」と腹から思っている。わかっている。これは事実であり、それを知らずに人情からYを正解と出来る者よりも、認識の段階として先を行っていると言うことも出来る。故に後れを取っているように見える善良なる者に対して確信的に振る舞えるわけだ。

あ~、わかる。頭いい、実際に賢いタイプの悪い奴ね。本当はそいつらの犯罪に立ち向かう時が警察の出番ってこと?

まあそうなんだが。そうとばかりは言えないのは、現実の世界は意図と関係なく結果として起きた現象に対処しなければならないから、そういうこともやる。交通とかな。
それはまあいいんだが、「この世には正解も意味も無い」のは事実だと私は言ったが、実はその先がある。私はそれを踏まえた上で、絶対の正解がある、としたのだが、それを理解するには、順番を経なければいけない。例えれば、車に乗って何処かへ行くにはまずドアを開けて乗り込みドアを閉めて、という手順が必要だろう?これは物理だが、心の世界についての話ならそんな手順は不要だと思うかもしれないし実際諸説あるといえばあるのだが、心の世界においても実はそうではなく段階がある。いまのお前には難しいだろう。

ん。やはり修行するしかありませんか?それまでは厭離穢土欣求浄土と心の旗を掲げて。
イヤだなぁ〜面倒くさいよぉ〜。

たわけが。

こういう時は、逆から考えてみたりするのが突破口になったりするんじゃないの?
この場合はぁ、Zで、殴られる人体の方を自分とする。Z. 殴られる、と。すると、Yは、えーっと、何もされない。えー、二択にならないかなぁ。受動態だと選択にならないなぁ。
どっちが正解かな?好みの問題になって、まぁ痛いのが好きな人もいるから、好きな人には滅茶苦茶にされたいなんて惚気る人もいるし、とか考えちゃって、まぁ大多数はYを正解とするだろうけど、これは解と言うのはおかしい感じがする。希望、とか、って言葉がしっくりくる。
どちらをお望みですか?って。

ふむ。希望には、正解がない。夢に正解があるなら、全員オオタニサンになるべし、となって、それは強制となる。でもそんなふうなことしてるな世間では。公務員になれ、と子に言い聞かせたりして。それは親心から、お金に困らず幸せであって欲しいとの願いからではあるが、現代に至る歴史の過ちを踏まえた価値観、何びとも強制されない自由を持っている、として保障している権利、に反する行為でもある。まぁ、提案、という形で止めるなら反しないしこの話はもうやめよう。

あっ。背理法。つまりZが正解になる場合を考えてみれば。
まず、「ZとYの二択は、Yが正解である。」という命題があなたの主張するところですよね。というか、あなた誰ですか?あなた、信用に足りますか?

私が誰であろうと、命題の真偽には関係がないだろう。いまさらそんなことにこだわるとは思わなかったよ。

まあ一応ですね。そういえば誰だったかなぁ、わっかんないなぁ、と思ったものですから。
それはそうと、背理法をするには、これの否定形
「ZとYの二択は、Zが正解である。」
これを考えれば良いわけですよね。で、これに矛盾があることを示すことができれば、元の命題が真であると証明できたことになる、と。
えーーーっっっとぉ、
殴る殴らないの選択は、殴るのが正解である???
そんなわけないやんけ〜。怖みの極み!恐怖の極み乙女なり〜。

乙女だったのか。これは気づかず失礼した。ちょっとそっちに寒風を凌ぐにいい庵があるから、行こうか。

いきなり露骨ですねぇ。これ、どういう設定だったら、ここまでのやり取りでそうなるんですか?壁を隔てて、ボイスチェンジャーでも使って会話してるんですか?オモシロクナールの瓶を受け渡しもしたし、壁には開け閉めできる小窓がついている。面会室?
茶室か。茶室の内と外で話しとるんか?我々は。色々と無理がありやしませんかい?

まあそういうお年頃ってことで。それについてはもういいかな?

切り替え早いな。アンタが色目使ったんじゃないですか。

ちょっとしたおふざけじゃないか。そんな色目なんてセリフもカワイイね。

キモッ。もういいです。

えー、なんだったっけ。背理法をやった結果は、どうなる?

基本的に、あなたの出した命題は真であるということになります。
否定形が真であると仮定すると、殴り殴られの暴力世界が実現してしまいますね。怖すぎます。

はい。良かったね。一応、例外を出してもらおうか。

憎っくきアイツを、この憎しみを思い知らせるために殴るか殴らないかの二択は、殴るのが正解である。
むむむむむ。正解であるとは限らない、って感じがします。

正解であるとは限らない、ということはぁ〜?

正解でない場合もある。と。

ということはぁ〜?

不正解である。かな?
うーーー。ちょっと例外を思いつきません。

ハハハッ。いえ〜い、私の勝ち〜。いやっふぅ〜。勝ち誇る権利手に入れたり〜。やったぁ!

(バカかこいつ。そもそも疑問に思った所を聞いてみただけだし元の命題に文句をつけた訳でもないのに。腹立つやっちゃな〜。)
良かったですね。じゃあ一発ぶん殴っていいですか?

いいよ。ほらぁ。右の頬を出した。

ま、当然これは、大勢として、無理が通れば道理引っ込む、のような世の中でないからこそ通る命題である。

その前に、ちょっと待ってほしい。そもそも人間(認識および行動の主体)がいなければ、命題は存在しないのだよ。だったら、人間を抜きにして成り立つ人間についての命題は、何の意味を持つだろうか。そして人間の在り方は様々であったし、様々であるし、様々であるだろう。
人間がどのようなありさまでその時に在るのか、という条件がなければ、上の命題の真偽は、揺らぐ。

いまこの時にも起こっているように、国家において、そのように規定されている事態になり、そのような場合の決まりである統治状態になれば、すべて無に帰する命題とその真偽である。
悲しいね。人間ってものは。理性などかなぐり捨てて、獣性に支配されて銃声に死を配させる。
うまいこと言ったつもりか。って、いや、うまくないこと言ったつもり。ただ同音異義語を探しただけ。

そうして、「正解も意味も無い」この世に、正解と意味を与える意志は、善良を選び、いまこのように、私は、安穏の中にいる。
「正解も意味も無い」という事実の前にとどまり、そこから意志して不善を為す者たちは、この歴史の結果たる現在の重みを知らず、自我の錯覚に気づかないことを理由とする貪瞋痴に幻覚されている。

戦争を知らない私たち、などと、どの口が言うのか、頭の中を覗いてみたいものである。フフフフフッ。

ま、知らんけど。そらそや。
ただ、大雑把すぎる言い方なんよね。

先の戦争のあった時代にそこに居らず、直接その頃の人々の纏う空気や現実の人々の動きや言葉を体験していない私たち、ぐらい言えば、間違いないんだけど。これは否定できませんよ。
なぜ、あのようなワンフレーズの言葉に纏めようとするのか?そのために正確性を犠牲にしてまで。

これが科学的に物事を把握しようとする上座仏教の生徒である、私の感想である。

などと。

丸でもバツでもないものを

わかってほしい
わかってほしい
わかってほしい
っいぇい!

(ゆらゆら帝国『わかってほしい』より)

と、カラスの声真似で歌ってゆらゆら揺れている私。
むずかしわ!

常にYの選択肢を持って観察することを知るならば、正解なんだよ。
一つずつ、

ゆっくりと、ゆっくりと、

行こうじゃねぇか。

どうにかなる。


無常なるこの世で、生かされ、生きている、生かしていく。ならば、それぞれの自分がやるべきことが、確信と共に、見えてくるだろう。たぶんね。

とかなんとか言いつつ幾年月。
机にはホコリが10mmも降り積もり、アパートメントの壁はすっかり苔むした。

あかんな。

そう言い残し、私は眠るように眠ったのであった。

私の失敗を他山の石としてくれ給へよ。老境の淵に嘗ての息も噎せ返る濃い新緑が醸す命の奔流と時を同じく馴染んだ己の身体とときめきを脳裏に映す力も萎え後は奈落へとの念ばかり募る私に不思議と後悔もないが客観に映ずる姿如何か知る由もなし。

なんつっとるわ。

やっぱダメだわ。内容が内容だけに内容が無いよう。つーか。

終わり良くなければすべてダメ

ってか。

駄目感があるってことは、どっか間違ってんだろな。いまはわかんね。でもお釈迦様はね、それでいいと仰っているんだよ。やってみて、自分で発見するしかないってことなんだから。寛容なんだね。なんでだろうね。生命について、とことん観察したら、そうなるってことなんだろうね。包容力のある大人は、モテるって言うし。偏狭よりは、狭量よりは、そらそやろけど。モテたいねぇ。(ここで自分の立ち位置がわからなくなって終了)

のち、再開。

途中からねぇ、個人的な恨みに基づく思考に入っていってたわ。先の大戦の記憶に引き摺られてな。現代の人間を無知だと見下す、”慢”の一種、何と言ったか、に入っておったわ。こういう所でも、お釈迦様の教えの偉大なる智慧が私を引き戻してくださる。有り難いことである。

先程の話では、悪人差別が入ってくる。敵味方の構図を作り、敵に対し改心せよと迫る、つまり、矯正を施さねばならない、となって、これは仏教の教えに反する。専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会の方針にも反する。教義を信じよ、という信仰の話になってしまうではないか。やはり思考というのは危ういものだ。

順序の話をしていた。
これまでの話で、段階として踏まえた所は、まず、可愛く愛おしい女性に言わせた、生存への意志、これにより、命題は真である、とした。

しかるに、そうはしない者たち、いわゆる悪人たちは、他の生命を無碍に扱っても平気であり、それは「この世には、正解も意味も無い」という事実によるものであり、この姿勢は貪瞋痴の三毒に侵されているのではあるが、事実に基づく意識であるため強固であり、どのように浄心へ至るのか、という所だった。

ここで正見についての著作を読んで来た。これである。
『正見 苦しみから解き放たれる道 八正道①正しい見方    ありのままに見る智慧 著:チャンディマ・ガンゴダウィラ長老』

私が事実だとした命題
「この世には、正解も意味も無い。」
だが、邪見の内、断滅論に入るだろう。私も大いにこの邪見に執着していることになる。

悩んでいるようだね。
また、「意味や正解」がある具体的例を探して、論理的に否定しようっていうんでしょ?

また急に割り込んできたな。困るなぁキミは。わしゃ、精神の病によくある症状、考えが盗まれている、そんな状態にまさになっておるじゃないか。控えてくれ給え。

いやもう書いちゃってるんだからそれとは違うでしょ。あと私はさっきの娘とは違うよ。

えっ?!さっきの娘が良かったんだけど。えっ。オモシロクナールのやり取りをしたときにチラリと見えた柔らかそうなみずみずしい手の肌、息遣いの間、当意即妙の受け答え、何もかもに恋し、君じゃなきゃダメだ、という強く温かな気持ちを抱いていたのに。わしは悲しい。

米津玄師の馬と鹿の歌詞をそのまま喋るな。口から出るに任せてありもしなかった感情を捏造して。嘘をつかないでくださいよ。一瞬で無常と切り替えて離れるくせに。白々しい。悟りに至ると、心が完全に破壊された状態である、というのは本当みたいですね。

やっぱしらこかったか。悪いな。全くキャラクター造形というものがないから、お主が誰だろうともかわりないわなそら。あとこんな馬鹿者が悟りに至っているわけがないじゃん。買いかぶらないでくれないか。

別にいいけど。それで?
正解や意味のある具体的例を挙げるまでもなく、概念としてあることはわかる。でも、「この世には、正解も意味も無い。」って言う詠嘆をする時に言わんとしていることは、そうじゃないよね?

せやな。類似するとして違和感のないセリフをいくつか挙げてみて、それらに共通する事項を見ていけばいいか。

見るからにダルそうだね。そんなことしなくていいよ。奴らの特徴を、私が分析してあげる。
1つ。力を持っている。人に暴力を振るう力、経済力、人間を動かす知能、そういったものを。
2つ。漫画、銀と金なんかに出てきそうなセリフを鵜呑みにして信じてそうな顔をしている。金をつかまなきゃ、人生嘘なんだよ…!!!!みたいな。
3つ。

もういい。わしが間違っていた。戦うしかないんだ。永遠にな。その戦いの記録が、憲法にも書いてあるじゃないか。呑気なことを言って、無我だと悟っても悟らなくても、否応なく来るんだ奴らは。あれらの生命の目からは、どんな景色が見える?わしとて、彼らの心の動きを生きたことがないとは言えない。それでも、ここまで来たんじゃ。あんな世はもう金輪際御免被ると、多くの皆と力を合わせてな。それで十分じゃろ。たとえ多少の無理解、不和、不信、不平不満などあっても、いのちさえ無事なら。どうしても耐えられない場合には、どこへでも行く自由が保障されている。こんなことはありえないものだったんじゃ。

ほら。こっちに来て。ギュッってしてあげる。
……
落ち着いた?

うん。

ほんと切り替え早いな。泣いていたカラスがもう笑った。まるで赤子みたいじゃない。もう少し、余韻というか、時間の寛ぎみたいなものはないの?私の体をもっと褒めてもいいのよ?

マジで気持ちかった。

雑だなぁ〜。そんなんだからモテないんだよ。物事は細部に宿る、っていうのに。しかも自分の主観的な感覚だけ表現して。不善ちゃうんかぁ?主観的な見方は。このワルモノが。人生損してきたねぇ。

うるさいなぁ。やっぱさっきの娘が良かったと思う。こんな時、さっきの娘だったら、わしももっと素直になれたと思う。

思いっきり触って匂いも嗅いでたくせに、ホント最低だね。
てかわたしさっきの娘なんだけど。

だよね。知ってた。声同じだもん。

もうこの設定やめよ?私が真面目に慰めようとしたことまで嘘になるみたいじゃない。

右の頬をぶったんだから、左の頬もぶてばいいじゃない。

ほぅ、いい度胸だ。キリストの教えをマリー・アントワネットのセリフに嵌め込んで表象させるようなおどけた真似をして。今度はグーで行って良いやつだよね?

なっ?!なしてそうなんねや。拳骨でやる程のことなんかしたかワイが。殺す気かっつにゃ。アビダンマの計算によると心の速さは光の17倍らしいが、心の時間が速く流れるんが可能ゆうても、体は物質と仕組みで出来とんにゃから。Zはあかん。

Aやろ?アタイが相手だったら。

この場合に限っては、やぶさかではないが。しかしそうするとサケの生涯の完了場面に到達しないとも限らないよ。

また身も蓋もないことを。そちにはほとほとあきれ果てたぞ。わらわは、笑笑でワラワラ出てくるワラワラの者たちを人間観察に行ってくることにするぞよ。

ワラワラの者たち、ってなんだよ。

おほほほほ。従業員ぞよ。

居酒屋の従業員がそんなワラワラ出てくるかっ。

ほほほほほっ。煩悩に流されない、停止させる、Yの力を見たか。

お前が言うんかい。それがオチだったはずなのに。さっきまで確かそうだったよ。この作者のパーソナルコンピュータの中では。それ俺のセリフだったはずなんだけど。

さぁ。さすがにアホの作者でも、さすがにつまんなくね?って思ったんじゃないの?

まあ、一人称が変わり過ぎだし、人格破綻者みたいだから、コイツに喋らして終わるのは怖い気もするよね、僕からしても。

だよね。現実にいたら、正気の沙汰じゃない気がするよ、そんな一人称が変わりまくっていくやつ。病気だよアンタ。

いや、そうではないけどね。仏教では、生きていることが病気みたいなもの、だと言っているし。

ま、世間一般的に言われそうなこと、言ってみました。

そっかー、そこまでわかっているのなら、ホントに僕と、そういう仲になりませんか?

なるわけないでしょう?現実は、辛く厳しいものなんですよ。あなたのような人格のととのっていない者が、世知辛い世間で調和して生きてゆけるはずもないのに。わたしを世間的な不幸に陥らせるつもり?

ちっ。わが身の境涯を呪うしかない。

仕方ないんじゃない?
断滅論、虚無主義が本当だと見えるんでしょ、いまのあなたには。確かに、十世代も遡れば誰もその存在を覚えていない人が無数にいるだろうし、そう見えて当然だよ。

諭すつもりが逆にこっちが諭されている。十事正見は分かるとして、62の邪見が全然納得できていない状態だからな。修行が足りんのはこっちやな。はぁ。めんどくさ。まったく無駄やったんか?私がしてきたことは。

そんなことが本当に分かっている人はほとんどいないよたぶん。涅槃に至るのはそれだけ難しいことなんだよ。私は思う。あなたは確かに生きてきた。ように見える。

疑うねぇ。そしてみんなそうやろ。

口では何とでも言えるもんね。

う〜ん。
ところどころ、その会話の流れはおかしいだろ、不自然だろって所があるが、不自然とは?って話にもなるし、途中で切ったり挟みこんだりツギハギしちゃったからね。
あ、目が見えていない設定にすれば辻褄が合ったのかもしれない。匂いが同じ、ってね。

グダグダだけどね、作品を作ることが目的じゃないからここでは。目的は実験だからね。何の?って、物理的な、つまり物質についての科学における実験ではないことは確かだけれども。

まぁ文筆について無学の素人なんだからこんなもんか。

まあわからんが、おのおのがたも頑張っていきましょう。少しずつ、成長していくしかないじゃん。そのために一つ一つ集中して取り組み、上手くいくようにする。それが楽しいんだよ。知らなかったことを知っていく。さらにその先があることが見えてくる。何をしても楽しい。そうなるはず。

すべての生命が幸せでありますように。祈って、また。

参考文献
『浄心への道順 -瞑想と覚りをめぐる初期仏教長老と精神科医の対話 著: アルボムッレ・スマナサーラ長老  名越康文』
『恐れることは何もない -この世をうまく生きるブッダの智慧 著: アルボムッレ・スマナサーラ長老』
『正見 〈正しい見方 :Sammā Ditthi〉 八正道① 苦しみから解き放たれる道 著: チャンディマ・ガンゴダウィラ長老』
『浄土 著: 町田 康』

『日本国憲法 青空文庫』

ところでおじいさま。

なんや、わしにヴェルタースオリジナルをあたえられしものよ。

ここのところがよくわかりません。冒頭近くの、「絶対に誤りである選択をし続ける人々」という文です。これはどこにかかっていますか?

それは、その0.1以下の事象に関する想念や思念に意識を占められ現前における視野の狭窄を起こしているということや。光、色界の色、のことばかりではない現前に対する視野についてだが。そんなことでは何も見えていないも同然。正しい選択などできようはずもない。危ういのう、ゆうことや。

あの書き方じゃわかりませんよ。

やはりかいてみないとわからんもんやな。
しかし、そなたに指摘されなければ、何故ああ書いたのかも忘れたままになるところであったわ。そなたのおかげじゃ。ありがとう。

ここぞというときにはあんなに怖いのに、そんなに謙虚だなんて、さすがはおじいさまです。

ふっ。まだおやつが足りないか。これなどどうや?

いえ、いいです。

もちょっと子供らしく振る舞うことを覚えようか?そんな早熟では、何かとまわりとの軋轢が心配じゃ。いらなくても、駄菓子菓子、食え。

わ、わぁ。あ、ありがとうございます。いただきます。

(逆の意味でどんな教育しとるのやら。これだから英才教育は危ういのや。わしの手には余るやもしれん。どうしたものか…)

〈了〉

なにがや。
最後考えすぎやろ。アホやなぁ。って俺か。
人物設定も何も無いし、小説でもないのに、〈了〉があるか。っちゅんじゃボケが。
こちらの思惑次第でどこまででも続いてまうわこんなもん。
三島由紀夫もプルーストの『失われた時を求めて』のような小説を書くことを望んでそれに言及したときに「妄想」という言葉を使っとる。
ストーリーは妄想なんや。

と、言うことで、仏教の話に帰ってきてしまったな。

タイトル回収せなあかんか。

ここまでで、何らかの思い込み、妄念に気づかれたとしたら、幸甚にございます。