ハラスメント的なことについて


一つ、性的なことについては、動物としての人間の、三大欲求の一つでもあり、これに関する表現は、大いに人の心情を刺激する故に、その取り扱いには細心の注意を要する。

その欲求の目的とする事象については。

事実としては、牛の品種改良の為のあれと一緒。

しかしながら、それはそれとして、それについて言えば言うほど、被害を受けし側はフラッシュバック?

人権侵害とか禍々しげな音を繰り返したり、必要以上におおごとと受け止めるような雰囲気醸成をしたりするとね。
頭を占められ、反芻して、時がその過去に戻り苦しみ再燃。てことも人によりありえるよね。

今年の大河ライクに。
よしわらのおんなたちは、回復不可能なダメージを受けし被差別存在か?

そんなことはない。そのことを現象に過ぎざることと知り、矯め、こころから払い落とし清め、生業(なりわい)と心得、従事しているだけのこと。

しかしながらそれは、心の修行の賜物であり、それなくしてなせるものではない。

性的な犯罪とは、たとえるなら、
「横浜流星が武術の心得なき男を相手に本気で闘い嬲りいたぶる」
ようなもの。
屈辱なり。辱めなり。
いじめ、カッコ悪い。
そんなことをやる可能性がある者。キッショ。

いや、失礼。可能性などいくらでもあり得る。とんだ馬鹿者だな私は相変わらず。あまりにも、この世であり得る状況を知らないからね。

ではどうすべきか。

私の場合は、これはもう信仰に近いものかもしれないが、絶対に暴力を使わない(自衛のため以外では)立場を取る、ことにしているため、そうではない者、への思慮を欠いていた。

原因と条件によっては、幾らでも立場から転落することがありうる。そうなれば、私もまた、非暴力の立場を取らない者と同じ。

そして、そのような経緯やいきさつで、暴力を現実とした者も、いるはずである。

その者は、現在進行の可能性の中にいる私であり、過去に私であったし、未来に私でありうる。

私はそのことを知らなければならない。

決して忘れないように。呪文にでもしたいものだが。

「罪を憎んで人を憎まず」か。

これでいいのか?

二回目だな。

また助けてもらっちゃったな。

やっぱすごいっすね。ありえないと思う。なかなか、笑かしてくる程の智慧を持つ政治家、いないもんね。

私も、また、合掌から始めますわ。掌を掌と合わせ、これは、何をしているのであろうか?

バシッ!

後ろから、帝釈天が、警策(きょうさく、けいさく)で私の肩を叩いてくる。これは良い、自動戒め作用が起こる。

この作用を私の意思で制御してはいけないとは思うが、しかし、何が駄目だったのかわからない。この怠惰だろう。たぶん。